折り鶴集会

小学校の「折り鶴集会」に参加してきました。

平和への取り組みが盛んな学校とは聞いていましたが、まさか1年生の初っぱなから、語り部による生の被爆体験を伺うとは思っていなかったので、案内のプリントをみて少し青ざめました。

でも、Yに、「本当は、お母さんたちみんなに来てほしいんだよ。だから絶対来てね!」と言われ。

人生のなかでこれだけは避けたいとひそかに思い決めているいくつかの事柄のひとつに、人生半ばにして挑むことになりました...。


気弱遺伝子を私から譲り受けてしまったらしいY。小学校に入ってから、「原爆」という言葉をふと口にすることが多くなりました。学校でだいぶ刷り込みをされている様子。
先週、七夕に向けて作った短冊に、クラスメートたちが自分自身のための願い事を書くなか、Yは、「せかいがへいわになりますように」と書いたらしくて。小さな胸を痛めているようで、私としても少し心配ではあったのです。

彼には少し荷の重そうなタスクに、母が隅っこながら同席していることで、少しは慰めになるかなと思ったのがひとつ。

そして私の側では、広島に生まれ育った人間として、いつか向き合わなければならないと心のどこかで感じていたタスクに、子どもの助けを借りて、ようやく踏み出すことができた一日ともなりました。

そしてなんと!参加した保護者は私ひとり(T-T)

講師の先生は、鳥越 不二夫さん。長年小学校の先生をなさってきた方だそうです。

低学年向けの部だったため、内容はだいぶ簡略化してあり、幼い子どもたちへの配慮も充分に感じられましたが、それでもなかなかに恐ろしいお話しでした。
事柄の壮絶さゆえに、どれほどかいつまんで話しても、事実の持つ恐ろしさから逃れることはできないのだと思い知らされました。

「幸せとは、命とは、平和とはなにか。それを常に自分に問い続けています。難しいとは思いますが、みなさんも、考えてみてください」と締めくくられました。

そのあとは、ライフワークのようにして取り組んでおられるハーモニカの演奏をなさいました。
大小様々、音域のバリエーション豊かな演奏で、心に沁みました。

児童たちからは、鳥越さんへのお礼として、「折り鶴のとぶ日」を歌いました。続いて、今日の集会についての感想を挙手方式で述べ、散会となりました。


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    「ちいさな ゆき」

    「ちいさな ゆき」
       まど・みちお

    ちいさな ゆきが
    ちらりん ひとつ
    ひとさしゆびに おりてきた
    ひとさしゆびの ゆびさきに
    てんの つかいのように して

    ちいさな ゆきが
    ちらりん ひとつ
    ひとさしゆびで きえちゃった
    ひとさしゆびの ゆびさきで
    てんの ようじは いわないで

    ???

    まずは、季節外れであることをお詫びしておきます(^^ゞ

    1年生と暮らしていると、「音読」テキストにふれる機会が多くなります。学校の宿題でも1日1題課されています。

    子どもの声による詩の音読を聞いていると、(もしかして、詩人のみなさんってこのために詩を書かれたのかしら)と錯覚するほど。子どものちいさな手のひらにふわりと収まる大きさと柔らかさ?

    「けいさんかあど」練習、つまり、1+1=2...etc. に付き合うのも意外に楽しいものですが、音読タイムは私の一番好きな宿題タイム?

    小学生にもなると、子育ての醍醐味だなあと思う事柄も多いものですね。

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      チム・ラビット

      「あるばん、チム・ラビットは そっといえをでて、たんけんにでかけました。
       あかりは もって いきませんでした。そのあたりでは、小さなうさぎが よる そとにでかけると、みちを てらしてくれるものは たくさん あったからです。チムのいえのまえの ほそいみちには、のぢしゃの まるい花のあかりが ついていました。いけがきには、おおでまりの花が 月のひかりで、ろうそくのように ひかっていました。なかでも いちばん あかるいのは、そらの上の お月さまでした。」
      アリソン・アトリー著『チム・ラビットのおともだち』48頁

      イギリスの児童文学家アリソン・アトリー(Alison Uttley, 1884-1976)の《Adventures of Tim rabbit
      》をただいま読み聞かせ中。

      子うさぎが冒険するお話...といえば、まず思い出すのは、同じくイギリスのビアトリクス・ポター『ピーターラビットのおはなし』でしょうか。

      比較してみたくなり、あらためてピーターラビットを読んでみると。
      文章の簡潔さに驚きます。ほとんど出来事を記しているのみです。あの豊かな物語性は、ひとえにあのみずみずしい絵によって生み出され、支えられていたのだということがわかってきました。

      もともとピーターのお話は、5歳の病気の男の子への絵手紙として作られたものですから、絵と物語がはじめから不可分だったということになります。

      一方、アリソンの書いたチム・ラビットはといえば...(とても素敵な挿し絵がついているので申し訳ないのですが)挿し絵の力を借りなくとも、チムの住む世界の様子が生き生きと、そして詩的に描写されています。(※)

      「むぎは 金いろに ひかって、もう かりとるばかりに なっていました。むぎのはやしを なびかせて、かぜが とおると、まるで 水が ながれるような おとが しました。」(50頁)

      小さなうさぎが息をこらして耳をすませている、その息づかいまでもが聞こえてくるようです。

      これぞ語り部?と唸らされる描写は、こんなふうに随所に出てきます。

      「それから、カヤネズミおくさんは、くさを かきわけて はしってゆき、すかんぽのはっぱを もちあげてみました。すると、そこには、カタツムリが すわっていて、つゆのたまにうつる じぶんのすがたを じっとみていました。」
      同108頁

      ????

      ちょうど、少女ビアトリクスがペンをにぎり無心にスケッチをするように、アリソンもまた、言葉によるみずみずしいスケッチを一心に描いて、私たちに見せてくれます。


      絵本と児童文学の地平は異なるものではありますが、同じ紙とペンというものを与えられたふたりの女性が、形と記号という異なる媒体を用いながら、同じもの...つまり、生き生きとした自然とそこに暮らす生命とを、そしてまた、ちょっと小粋ないたずら子うさぎを主人公として、描写している...ということに、セレンディピティのようなものを感じます。

      ????

      珠玉の児童文学を、我が子と共に楽しむひととき。

      子どもと共に、親はもう一度、子ども時代を生き直しているようなところがあると思っています。

      花を見たり、望遠鏡で林を観察したり、日の光や夜のひそやかな空気を引き寄せて、「プリズムを通して見るとわかるのだけど、お日様は(およそ)七色の光でできているんだって。夕やけが赤いのは、七色のうちの赤だけが空を通り抜けてくるからなんだって」などと説明していると・・・昔、両親もそんな話を聞かせてくれていたのかもしれない...と、ふと思います。

      そのころの自分、つまりいわゆるインナーチャイルドのようなものを、いま私は(非力ながらも)自分自身で慈しむことができるようになっているのだ...と気づくとき。

      その力は、両親に、さらにいうなら母に育んでもらってきたものだと思うし、それこそが、自分の子どもに継承していきたいもののように思います。

      そんな私の姿を見て、この子はどんなふうな大人になっていくのだろう...世界観や人生観などは、親が意図して示すものよりも、背中が語るもののほうが、よほど大きい気がします。

      逃げ隠れもできない裁きの場でもある子育て、本当に恐ろしいものでもありますね。


      (※)叙情性を語るのに、翻訳ものでは役者不足かなとも思うのですが、そこはそれ、翻訳者が石井桃子さんなので、原語に勝るとも劣らぬ詩情を伝えてくれていると思っています。
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