学年末修了式

先週末から、PTA関連でてんやわんやの一週間でした。

クラスの担任の先生が、離任されるとの発表を受けてのことです。

役員4人で諸事繰り合わせて片をつけ、学年末修了式の今日、花束を持って学校に駆けつけました。

参観日や懇談会の場、また生活ノートでのやり取り、何よりYふくむクラスの子どもたちの成長ぶりを通して、母の私もいろいろなことを学びました。

何より、真摯に子どもたちと向き合って(渡り合って)おられる姿を拝見し、「教育って素敵だな」と思えたことは大きな喜びでした。

自分が児童・生徒の時分には、先生というものの大きさがわかっていなかったことを思い、反省したと同時に、「私もまた一人の生徒として、先生たちに大切にされていたのだな」という気付きを得ることができました。

子育てを通して、母である私も、自分の人生の生き直しをしている部分があるなと、改めて思いました。(インナーチャイルドをケアしている感覚でしょうか。)

歳を重ねていくということは、自分と和解していくことでもあると思うのですが(若い頃は気持ちがとんがっていますから)、この一年は、その意味で大きな収穫の一年となりました。

「クラス担任をするのは今年度で最後と、初めから決めていました」とおっしゃる先生。お年頃的にも、今後はサブ的な立場で教育に関わっていかれるご様子。

授業参観の度に、「一年生の先生って、ひらがな一文字教えるのにも、こんなに気合いが入るものなのか」と感心するほど、丁寧に、真剣に教えて下さっていたのは、そういうわけだったのか...と腑に落ちました。

これで、「し」を教えるのも最後なのか...と思いながらの指導は、どんなに切なかったかと思うと、私までなんだか泣けてきそうです。

ほとんど、小惑星イトカワから帰還した探査機《はやぶさ》の気持ちかも?
(あ、はやぶさ2がそろそろリュウグウに到達しますね?)

子どもという生き物は、怖いくらい、大人の本気を見抜く目を持っています。その子どもたち30人が、(基本的にいい子たちであっても)ここだけは譲れないというものを代わる代わる先生にぶつけるのです。
自分の子ども一人でも手一杯になる時もあるのに、集団を一手に引き受けなければならない先生は、本当に大変だったと思います。

授業の準備、教材作り、宿題の丸付けを30人分(足し算100問プリントなど毎日複数枚)さらに公務も...と考えると、おそらく寝る間も惜しんでの教鞭だったのではと思います。
歌も歌えば逆上がりもし、プールにも入り...。本当に頭が下がります。

そこまでして子どもたちに伝えたいものがある...先生というお仕事は、本当に尊いものですね。

先生の姿を見送りながら、卒園式の我が子の姿とはまた別の感動を覚えました。

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    水のパヴァーヌ

    吉松 隆「タピオラ幻景」より《水のパヴァーヌ》を聴いてます。
    今日は鎮魂歌に聞こえて...

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      劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』

      劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』エルサレム・バージョン。

      イエス・キリストの最期の7日間を描いたロック・オペラ・ミュージカル。

      衝撃的な作品でした。

      予告をウェブで見たところ、べジャール『春の祭典』(モダンバレエ)みたいな作りで、難解そうな予感がしたので、開始前にロビーでリーフレットを買いました。

      目を通す時間もなく公演開始。

      ずっしりと重いテーマがリアリズムたっぷりに描かれていて、終始眉根をよせて考え込みながらの観劇となりました。

      ジーザスやユダの語る言葉を聞く端から、物語への解釈がどんどん変わっていき、ひりひりするほどスリリング。こういうの、大好き?(あ、でも、痛ましいシーンが多いので、もう一度見る勇気はないかも?)

      ミュージカルというより、題材は演劇向きかなと。
      ウェバーの曲も、これに関しては、ロックというか、ジャジー?なテイストで基本的に好みではなかった上に、現代音楽的なカオスに満ちていて、重力を感じました。それもたぶん、地球よりかなり質量の大きな惑星の重力を。

      もちろん、美しいメロディラインもありましたが...。
      最後まで聞いてみると、不協和音には不協和音なりの到達点があるのだなと思いました。

      最後に私もスタンディングオベーションの列に加わったのですが、感動のあまりに、というよりは、この重く苦しい作品に向き合い続けた劇団四季の人々の苦労に報いたいと感じたからです。

      * ・ * ・ *

      ジーザスの教えは愛と神のもとの平等。権力構造を真っ向から否定するもの。けれど、時の権力者たちには、新興勢力として政治的な台頭を企てているようにも映ります。
      自分たちを守るため、ジーザスを亡き者にしようという動きが起こっていきます。

      そんな流れのなか、ユダがなぜジーザスを愛しながら権力者に引き渡したのか。様々に絡み合う複雑な心理劇が見られましたが、つきつめると、それは、ジーザスが磔にかかることによってのみ、ジーザスの思い描いた生き方が完成するから、それに手を貸した、ということなのだろう...と私は理解しました。(リーフレットの論評などにはそんな切り口はぜんぜんないのだけれど。)

      ユダはジーザスを愛するあまり、心酔し、執着し、己の自我を守るために距離を置こうとし、それでもなお魅入られたように、ジーザスを愛し続けます。
      そして、自分にとってジーザスが唯一無二の存在であるように、ジーザスにとっても自分が特別な存在であってほしいと願うに至ったのだと思います。
      光と影が、決して交わらないのに合一を願うように。

      ただ一人ユダだけが、ジーザスの見ているものを見ることができ、一卵性双生児のような同質さで世界を解釈しています。

      神がジーザスという存在を選び、この世でもっとも深く激しい光を当てたとき、その傍らに生まれた影が、イスカリオテのユダの上にさしてしまった...そして、ちょうどユダが舞台で叫んだように、ジーザスとユダが神に《利用》され、二人だけはその事を知りながら、なお、ジーザスは父なる神のために、ユダはジーザスへの愛によって、宿命へと続く茨の道を歩み始めたのだと思います。

      母性的な愛からは激しく逸脱していますが、父性的な愛の中には、こういう側面があるということを、歴史や文学や、それに私自身の中の父性性からも少し、読み取ることができそうです。

      愛が憎しみを呼び狂気を産み出した瞬間を、目撃した、ということなのかもしれません。

      別の言い方をすると、日本で昔から語り継がれている『心中もの』の美意識が、演出家の意図はさておき、感じられました。(ちなみに、ティム・ライス×ウェバーの初盤とは、演出も解釈もけっこう違うようなので、日本の美意識が投影される余地は大いにありそうです。私見ですが。)
      ...もちろんふたりの関係は、恋愛ではないけれど。

      また、《狂気》という同じ文脈でもうひとつ印象的だったのは、当初民衆が熱狂的にジーザスに心酔していたのに、途中からは逆に、熱狂的な勢いで、ジーザスを十字架につけるようピラトに迫ったこと。
      古今東西の戦争の狂気を見る思いで、心胆寒からしめるものがありました。
      かつて西洋などで処刑を見るのが民衆の娯楽だったというおぞましい時代があったそうですが、こういうことなのでしょうか。

      * ・ * ・ *

      人間が死ぬということは、特に病死や磔刑のような類いの時間のかかる死を考えると、非常に英雄的な行為だと私は思っています。
      (ちなみに、出産してみてわかりましたが、生まれる時にも胎児は命をかけていますので、生まれてくるという行為も、死んでいく行為の次に英雄的。)

      身体的に苦しみ抜いて息を引き取るという過程には、それだけを見ると惨めさ苦しみしかないと経験的には思いますが(私はまだ死んだことはないけれど)、それに抗いながら自らの尊厳を保ちつつ死んでいくというとき、人間は、真に英雄的な(超人的な)渾身の力を要求され、発揮するに至るからです。

      ジーザスは言いました。
      「死を越えて行くのには、死ぬほかはない」
      一度死ななければ復活はあり得ず、父なる神の大いなる計画が成就されない。
      だから、死なねばならない...という論理の道筋は、なんと悲しいことでしょう。
      父に愛されたい幼子の、悲痛な叫びのように、私には聞こえました。

      ジーザスにとって、幼い頃《父》は不在でした。
      マリアの夫はヨセフで、もちろん息子ジーザスを守ってくれていたのでしょうけれど、慈しんでくれている分、遺伝上の父でないことへの苦悩は深まっていったのではないかと思います。

      父親は神なのか、あるいは(聖書学のフィールドでためらいがちに語られるように)ローマ兵の蹂躙によって母が身ごもったのか。
      自分が悲劇のもとに望まれずして生まれてきたのか、あるいは栄えある神の子なのか...。このふたつの疑念の間で揺れる青年期は、相当に過酷なものだと思います。

      本来的に人間が、自分を特別な(無二の)存在と感じながら生きていることを考えるとき、ジーザスが己を特別な《神の子》と信じる決断をし、それゆえに苦しみに満ちた死へとひた走っていったのは、理解はできるものの、あまりにも悲しいことに思えてなりません。

      ユダはそれらすべてを見抜き、すべてに共感していたからこそ、永遠の汚名を着ることを覚悟しながら、ジーザスをピラトに引き渡し、そしてそのあと自ら命を絶ったのです。...ジーザスを失うこと、苦しむ姿を見ることに耐えられずに。

      そこには、すべてを冷酷に?計画した神への抗議の意思もあったのかもしれません。

      「マイ・ゴッド あなたはなぜおれを選んだのか」
      "Why you chose me for your crime."

      (おまえは自分の手を汚さずに、おれにやらせたんだ。)
      不敬でも、そう叫ばずにはいられなかったユダの、恐ろしいまでに鋭い糾弾です。

      けれどもしかすると、その底には、自分の名前が永遠にジーザスと対になって語られることを望んだ、悲しくも行きすぎた愛もあったのかもしれないとも思いました。

      ここまでくると、大岡昇平の『野火』を連想してしまうほどの、戦慄すべき極限状態なのかもしれません。
      (ちなみにこの小説、恐ろしすぎて一生読めないとは思うけれど、Eテレ『100分de名著』で世界観はリアルに体感できました。ここで思い出したのも何かの縁なので、そのうち図書館の棚の前でうろうろするかもしれません?)

      * ・ * ・ *

      「ジーザス・クライスト スーパースター 誰だ あなたは 誰だ」
      (Jesus Christ, Superstar
      who are you, what have you sacrificed? )
      一度聞いたら忘れられない、鮮烈なメロディーで歌われるこのパート。物語の最終盤に位置しています。

      ジーザスは神の子か、それとも人間なのか。

      歴史上もっともミステリアスで、ある意味スキャンダラスな(本人ではなく周りがね)巨星、それが《ジーザス・クライスト=スーパースター》なのかもしれませんね。

      紀元ゼロ年を歴史に刻んだ人、なのですから。

      * ・ * ・ *

      P.S.ピラトいい声ね〜?と聞き惚れていたら、11月にファントムをつとめて観客を魅了した村俊英さんでした。

      マグダラのマリア、紅一点の谷原志音さん。静けさと艶っぽさを感じさせ、とても素敵でした。
      1970年の英語版を少し聞いてみましたが、日本人の声質はやはりピュアな印象が強く、物語や人物像に深みと奥行きを与えていると思います。このへんが、海外でも高い評価を受けるゆえんなのかも。まさしく劇団四季の底力ですね。

      芝清道さん、影の主役、イスカリオテのユダ。
      シャウトが決まっていてかっこよかったです。声質も、粘度高めで(ほめてます)役柄に似合ってた。

      清水大星さん、ジーザス。端正な声で、やっぱり主役は違うね?と感心。

      順序がおかしいけれど、キャスト寸評でした。

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